廃墟萌え。
Category : EF50mm F1.4 USM | 構築物 / structure
□Canon EOS 60D + Canon EF50mm F1.4 USM
こちらへは何度も足を運んでいますが、遊郭の跡です。取り上げるのは2回目ですね。
田町遊郭
田町。明治後期から昭和中葉にかけて繁盛した八王子唯一の遊郭。1897年(明治30)4月の大火によって、それまで横山町甲州街道沿いにあった遊郭が焼失、その後、現在の田町に移転、田町の遊郭として繁盛を極めた。明治末期には、西玉楼、武蔵楼、今萬楼、宏陽楼、桝萬楼、大萬楼、三崎楼、大川楼、大桝楼、但州楼、福萬楼、吉濱楼、徳萬楼等が軒をつらねていた。1958年(昭和33年)売春禁止法施行によって、60年にわたる田町遊郭の歴史を閉じた。
→飯盛女
→飯盛女
(出典:八王子辞典の会『八王子事典』改訂版、かたくら書店、1991年、507頁)
飯盛女
江戸時代、街道の宿屋で給仕や雑用をつとめ、遊女ともなった女性のことをいう。1718年(享保3)宿場助成の一つとして、宿屋一軒に2名の飯盛女を抱えることを許可したが、人数は常にオーバーし、取り締まりの対象となった。八王子では宝暦年間(1751~1764年)に飯盛旅籠が公認許可され、飯盛女が登場。公には給仕女と認められていたが実質的には売女でもあった。宿場の繁栄にも一役買っていたことで取り締まりも充分できず、遊女同然にエスカレートしていったこともあり、1822年(文政5)には旅籠屋・飯盛女が検挙されたこともあったが、翌年には従来どおりの飯盛女が復活している。1824年(文政7)の文政の大火後、不振続きの四日場は振興策として、甲州街道に散在している飯盛旅籠を四日場(現・ダイエー一体)に集めた。飯盛女は次第に華美になり遊女化していった。明治初期には飯盛旅籠は貸座敷と名も改められ繁栄を誇ったが、1893年(明治26)に新万楼からの出火(新万火事)で遊女が焼死し、移転計画が検討された矢先、97年4月22日の明治大火が起こり、それを契機に浦田・新地(現・田町)に移転され、田町遊郭をつくった。この遊郭も1958年(昭和33年)売春禁止法施行により姿を消した。
と、再び引用しておいて、(出典:八王子辞典の会『八王子事典』改訂版、かたくら書店、1991年、877-878頁)
□Canon EOS 60D + Canon EF50mm F1.4 USM
□Canon EOS 60D + Canon EF50mm F1.4 USM